Ikigaiの補集合


あるTEDトーカーの功罪

「Ikigaki」という言葉が、四つの円が交差するベン図に閉じ込められたとき、頭を抱え、息苦しくなる。 その図式は清潔で、合理的で、ビジネス書のページに収まりがよく、SNSのビジネスインフルエンサーが嬉々としてこれを引用することが容易に想像できる。

さて、私が頭を悩ますIkigaiというベン図について説明する必要があるが、その図式の生まれ故郷を辿れば、バルセロナのオフィスにたどり着く。 デザイナー、アンドレス・ズズナガが「Purpose(目的)」の可視化として描いた Venn 図が、ある TED トーカーによって「Ikigai」という神秘的な東洋のラベルを貼られ、世界へと輸出された。 「好きなこと」「得意なこと」「稼げること」「世間が必要とすること」。この四要素がすべて重なる集合こそ、「Ikigai」であるとい主張だ。 なんと情けない「生きがい」だろうか。 これを最初に見たときに、寿司という形だけ輸出され、大西洋を越え、はるか先のアメリカ大陸で、カリフォルニアロールとしてこの世に生を受けた寿司を追悼した時と同じ気持ちになってしまった。 日本の「生きがい」は、決して四つの属性の交点に収斂する「最適解」などではない。

ベン図の傲慢

この図式が犯す最大の傲慢は、「仕事中心主義」への矮小化である。 まるで人生の意味が職業的達成に収斂するかのごとく。しかし、日本の伝統的な「生きがい」の風景は、他社の承認を得るものだろうか? 下手なりに楽しむ趣味、子を愛する親の愛情、誰にも読まれない日記をつけること。 これらは「稼ぎ」にも「社会的需要」にも回収されない。それでも確かに、その人の「地層」を形作り、重さを与えるだろう。 Ikigaiのベン図は、こうした「非生産的」と烙印を押されがちな営みを、無価値な余白として切り捨てる。 仕事だけが人生の支柱ではないという、あまりにも人間的な真実をどこに置いてきたのだろうか?

貨幣と承認、

「価値の貨幣化」と「承認依存」への盲信。 「好き」や「楽しい」だけでは不十分で、「稼げる」「評価される」ことであれと囁いている。まるで資本主義の奴隷ではないか。 「楽しいならそれでいい」という、ごく単純な人間の自由を、誰が否定しうるのか? 評価されない喜びは、喜びではないのか? この図式は、内発的な動機を、金銭的価値や社会的評価といった外的評価に従属させる暴力を内包している。それは「生きがい」の発見ではなく、「生きがい管理ツール」に堕している。 そもそも、図式の硬直した構造は「時間」と「矛盾」を無視する。生きがいは不変の定点か? 残念ながら、我が日本には「継続は力なり」という非常に便利な言葉がある。 今日「苦手」なことが明日もそうとは限らない。継続で好きは得意にも稼ぎにもつながるのだ。

わかりやすさというジャンクフード

「わかりやすさ」という名の罠も見過ごせない。複雑な生の実相を、四属性の集合演算へと還元することは、理解ではなく、単純化による歪曲である。 しかし、この図式が広まった理由は「わかりやすさ」という名の誘惑であり、これがさらなる深い欺瞞を隠しているのではないか? 「わかりやすさ」は、しばしば「理解」への反逆だ。 複雑で多層的な生の実相を、四つの属性という粗いサンプリングレートで切り刻み、再構成する行為は、「生きがい」という豊かなアナログ波形を、情報が欠落した粗いデジタル音声へと劣化させる。 この図式が提供するのは、「理解」というよりは「理解の偽造」に近い。 それは現実を単純化したのではなく、矛盾やグラデーション、無償性や時間の流れを、カリフォルニアロールが海苔の磯香を排除するごとく、意図的に排除することによって成り立っている。 切り捨てられた「生きがい」の上に、「Ikigai」と書かれた偶像が建てられている。

集合の外に眠る生きがいを

結局のところ、人生の意味を、たった四つの円で囲い込めると思うこと自体が、どれほど傲慢な幻想だろうか。 その「わかりやすさ」は、理解への近道ではなく、生の豊穣に対する一種の侮辱だ。 私たちは、この粗いサンプリングレートが捉えきれない「ノイズ」の中に、排除された無償の喜びや、評価されない情熱のざわめきの中に、むしろ生きがいの本質的な周波数が共鳴していることに、そっと耳を澄ませるべきなのだ。 「無償の情熱」「評価されない継続」「矛盾を抱えた愛着」、これらは「円の中心」など目指さない。それどころか、円の外で、むしろ図式そのものを相対化する力として存在する。 「生きがい」は、四つの円が交差する緻密な交点にあるのではなく、むしろそれらの円の外側にあるのだろう。 図式の真ん中にいないと宣言できる勇気こそが、私たちの生きがいを、四つの円が張り巡らした檻から、ほんの一歩だけ自由へと解き放つのである。